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May 27, 2006

ぼくを葬(おく)る

昨日はセミナー帰りに日比谷によって映画を観てきました。
シャンテシネで上映している『ぼくを葬(おく)る』。
GW頃に行こうと思っていたのに、気がつけばこんな時期。
6月2日までだそうなので、ギリギリセーフでした。

フランソワ・オゾン監督の「死についての3部作」の第2作目。
1作目の『まぼろし』は「愛する者の死」について描いた作品でしたが、今度は「自分の死」について。
2作に共通しているのは海と幻影。
とりわけ、海が生と死、もしくは再生をあらわしているように思えてならない。

主人公はまだ31歳と若く才能あふれる同性愛者の写真家。
ある日突然倒れ、癌に蝕まれた身体は余命3ヶ月と宣告されるのだけど、彼は治療を拒む。
そこからが物語の始まりです。
あとは彼の残された時を描くことにすべて費やされています。
だからと言ってお涙頂戴映画ではなく、どちらかというと淡々とした内容に感じられるのだけれど、主人公のまなざし一つが十を語るより雄弁な何かを物語っています。
でも、彼の視線の先にあるものが何かは、観る人によって違うのだと思う。
だからこそ、観客は次第に彼に同調していく気分を味わうのかもしれません。
少しずつ自分の心が引きずり出されていくように思われて、怖かった。

祖母との会話のシーンではじめて、彼の本当の心が溶け出します。
ぼくとあなたは似ているから、という彼も、それに答える祖母もすさまじい。
死が身近にある人の偽り無しの応酬。
祖母以外の家族には打ち明けられなかった彼。
恋人にすら本当のことが言えなかった彼。
でも、その気持ちは何となく分かる。
彼は祖母に会ったあと、誰にすがることもなく独りで自分を追い込んでいきます。
時に、自分の子供の頃の幻影を見ながら、独り、死について考え、怒り、絶望し、そして変化が現れる。
反目しあったていた姉からの手紙を読んで溢れた一筋の涙は、静かだけれど激しい慟哭を聞くより深く心に突き刺さる。
彼の変化はカメラで撮る対象物の変化でもあります。
公園で姉と子供の写真を撮る。
そのまなざしは慈しみに溢れ、もう曇りがないゆえに哀しい。
そして彼が最後にした事は、自分がこの世に存在した証だとか、再生だとか、そういうものではないのだと思う。
多分、ただそうする事が必要だったから。
それが自分の為なのか、後に遺された人の為なのかは分からない。
おそらくは最期、彼が見ていたものは命ある人の視点ではないから、きっと遺される人のことはあまり考えていないのじゃないかと思うのだけれど。
もはや自分の為ですら無いのかも。
ただ、残さなきゃいけなかった。

海で泳ぐ彼の身体は細くやせ衰えていて、死の匂いがするにもかかわらず美しい。
そして浜辺で出会った、子供の頃の自分にボールを手渡す。
彼は旅の答えを見つけた。
自分の生を享受し、すべてを許したあとで彼は時に身をゆだねる。
波の音に包まれ、まるで海に溶けていくように、独り砂浜に横たわり、生と死に溶け込んでいった。

彼のある意味自分勝手な終わらせ方は、遺された方にとっては残酷だと思う。
特に彼の恋人は、真実を知ったとき、激しい後悔に見舞われるのでしょう。
そして残されたものを知った時、彼はどう思うんだろう…。

波の音のみのエンドロールが秀逸。

投稿者 melissa : May 27, 2006 01:55 PM


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コメント

TBありがとうございます。
わたしには主人公のナルシズムがどうも鼻についてしまい
彼の後ろにフランソワ・オゾンの得意げな顔が見え隠れしてしまう始末で
あまり感情移入できませんでした。

でも、オダギリ・ジョーは好きです・・・

投稿者 pop nomad : May 28, 2006 12:10 PM

pop nomadさん、こんにちは。
TB承認ありがとうございます。
主人公は確かにナルシズム感じますね。
でも私は結構引きずり込まれてしまいました~。

オダギリ・ジョーさん好きがここにも(笑)!

投稿者 melissa : May 28, 2006 04:53 PM

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